大村はま先生との思い出を綴ったエッセイ② by 早川哲雄
ノート
夜、校舎の中を歩くのはあまり気持ちのいいものではない。けれど巨大な校舎の隅々まで神経のゆきわたるような"カン"が職業的につくようにもなる。石川台中学校に学校警備の仕事で勤めたころは校舎がちょうど建て替えられていた。やがて真新しい校舎が完成した。新しくてもやはり広い校舎の中を歩くのはいい気がしない。
深夜、図書室に「ちょっと変かな?」と感じて入った。図書室の中は何事もなくていつものように片付いていた。テーブルの上には生徒たちのノートのようなものがたくさん積まれてあった。その一番上のノートを何気なく取り上げて読み始めて、わたしは動けなくなってしまった。2冊目、3冊目と目を通した。5冊目も6冊目も読んだ。どれもすばらしいノートだった。
▲コーヒーカップとぬいぐるみは、大村はま先生が長年愛用していた品。形見分けに頂戴して大切にしている。
打ちのめされたような気がした。ぼくはこういう教育を受けていないと思った。私の受けた国語というのはただ教科書を読まされたり、文章の感想を書かされたり、解説を読まされたり、文法の暗記をすればすむものだった。そこにあるのはほとんど初めて見るような国語教育の場面だった。この先生に教わったならば、恐らく、ぼくはもっと人間が変わっていたかもしれないという衝撃があった。今もそう思ったことを突飛であったとは思わない。どのように読んでどのように書いたら、文章もまとまるし考えも深まるし、遠く深く理解を持つことができると、思考や科学の方法について、人間としての成長について、中学生のそのノートは語っていた。私はその場にはいないその教師の凄さに圧倒された。 石川台の生徒たちがうらやましく思えて、田舎から出て行って司法試験の受講生であるという自分の内心にブレーキがかかるように感じた。遠く過ぎ去った子供の頃の、学校のある科目の、もう時間の幕の降りてしまった事柄とは思えなかった。
演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮:池宮英才
合唱:東京女子大学クワイヤ
1977年12月新宿厚生年金大ホール
メサイア
毎年11月になると「これを聞かなくちゃ年の瀬を越せないのよね」と言いながら、「はい」と2枚の切符をくださる。先生の母校・東京女子大のメサイアの切符である。石川台に居る間、ずっとメサイアを聞かせていただいた。
「今年は〇年卒業の〇〇さんもご一緒よ」と言って別の招待者に会わせてくれたり、「弟です」といって紹介されたのが東工大の大村晴雄先生だったりして、楽しい思い出をいくつもいくつもいただいた。
札幌へ帰って第九ばやりのなかで、メサイアを探して聞きに行ったとき、「メサイアは東京女子大に限るな」と素子さんと顔を見合わせて笑った。もう二度と、はま先生に会えないのだと思っていた。