大村はま先生との思い出を綴ったエッセイ ④ by 早川哲雄
トップ
自由が丘駅の〝トップ〟という店で食事をすることになった。はま先生がご馳走してくれることになったのだが、「僕一人ではいやだといったんだ」と言うと、「でどうしたの」「奥様もご一緒でいいのよって言ってたよ」。素子さんはもうあきれを通り越して情けないというか、恥ずかしいというか。うん、今考えてみると一度も会ったこともない人に食事に招待してもらうってのは、ちょっと無茶だったか。
でも私は、兎も角会わせなくちゃ話にならないと思ったから、先生のサイフの事情や素子さんの体面については考えなかった。でもおかげで素子さんも〝トップ〟のフランス料理を思いっきり楽しむことができた。素子さんはまだ学生だったし、二人にとってもフランス料理を食べる機会など、そんなになかった頃だと思う。「〝きちんとしたお店よ〟って言ったら、あのとき早川さんは背広を着て来たんですよ」と、はま先生は言う。毎日セーターやTシャツで暮らしていたに違いない。
後年、渋谷のデパートでパンを売ることになった折、素子さんの前に〝トップ〟のケーキと惣菜の売り場があったという。その時、彼女の心の中には、はま先生と出会った"横浜"と"自由が丘"と"成城"の時代がセピア色のフィルムのように流れて行ったに違いないと、あの催事に行かなかった僕は思うのだ。
孤 高
はま先生は朝いつもバッグや資料の荷物を両手に下げて、一番早く学校にやって来た。荷物を両手に持つのが身体や歩行にバランスを与えていた。少しの段差でも必ずその前で立ち止まってゆっくりと前へ進んだ。石川台中学校に勤務した数年の間、いろいろな教師仲間や後輩・教え子などが先生を囲んで通り過ぎて行くのを見た。
先生の荷物を黙って下げて行く人もいる。段差を前に立ちすくむ先生におかまいなしにお喋りする人もいる。本当に遠いところから勉強しに来てるんだなぁと思う人もいた。職場では総じて別格という風に遇されていた。しかし男性教師も女性教師も中堅以上になればなるほど敵意を持っていた。
先生のひたすらに走り続ける態度にはあいまいさがなかった。非常にはっきりしていた。一生懸命にする・しずかに・穏やかに・けれど余裕を持って・揺るぎなく・厳しく・激しく、いろいろな姿があいまいさというものを退けて「百門のテーベ」のような威容に届いていた。なまけ者や努力をしない教師、なれあいや体面だけの教師は、結局、人を教えることもみちびくことも共に語り合うこともしない。はま先生の態度は人としての優しさや、愛や人類としての夢や希望や、可能性を信じる心から来るものだから同じ言葉を口にしても心から信じない者は、そのように生きることはしない。先生は自分の荷物を自分で引き受けて歩いている。職務の上での教員とはまったく別のレベルで教師というものの姿を、しかも極限まで清みきった〝師〟というものの姿を、生涯を貫いて示すに違いない。
石川台の現業の労働者の一人として、少し離れたところから私はそのように感じていた。はま先生の活動に対して教室の使用を許さない・スリッパやゲタ箱の使用を許さない・時間の厳守をことさらに強いるなど。さらには学年の持ち上がりを当然に想定した学習指導を二度も三度も一年生に振り当てることで不可能にさせてゆくなど、およそ目にあまるような現場の「いじめ」があった。どのような場面でも同じであろうけれど、特に教育の現場では、決してあってはいけないことがそこにはあったし、たぶん教育界の多くは今もああしたそこにいてはいけないような人々によって構成されているのだろう。そんなことはないというには、あまりにもはま先生の孤高が深かったように思う。